ロンリーナイト
随分身勝手な「論理愛好家」であったと思う、ある時分のわたしは。「論理愛好家」たる所以を理性のことばで掘り出すことをしないで、おいて、そこには中途半端な合理化とも正当化とも呼べない屁理屈をつけて、おいて、他者には容赦なく論理の金網を押しつける。自分だけはうちにドロドロのカオスを抱えていてもいいと思っていた、それでいいことにしていた。自分を棚に、であればまだ救いはあった。でも、棚に乗っかっている自覚がなかった。もし地に足が着いているなら、金網に赤く腫れ上がった世界の痛みはわたしの痛みでもあったはずだ。
今も論理的に考えること、話すこと、書くことはする(する、というほど自覚的なものでもないとも思うが)。けれども、偏執愛的な論理へのこだわりはない。少なくとも目的ではないし、「感情」の対立物でもない。論理は論理。ただ、分けて、序列をつけて、結びつけるだけ。うまく付き合えば、ネクらなくても論理できる。
ちゃんと統計やってるひとはその弱点も知っている、統計的に
久々にテレビを観たら、アメトークで家電芸人をやっていました。AI家電なるものがあって、すんげえなぁ~とか思いながらみてたんですけど、そこで出てきた鍋っていうのが、最近肉の料理が多かったら、「最近肉料理が多くないですか」って言ってくれるもの。
なるほど、AIと人間、だいぶ近づいてきたな~、人間のこと気にかけてくれるのうれしいな~
……とは素直に思えないのがひねくれているわたしでして、他者を気にかけることばってどこから発されるのか、なんて考えてしまいました。
たとえば、一人暮らしで食生活の偏った恋人に「ちゃんと野菜食べてる?」なんて尋ねるときには、最近肉ばっかり食べてるみたいだから、とか冷蔵庫にまったく野菜が入っていないから、だけではなくて、ただ体調を、大切なその人を思いやるがゆえだと思います。なのにそれを字面だけ追って、統計的に偏りがあるから声をかける、というふうにとらえては、大切なものを見落としてしまう。
別にAIと人間の境目がどうとか言いたいのではないし、AIと比べたときの人間性はどこにあるのか、とかを考えたいわけではなくて、統計的に処理されたデータに「人間風の」「声」を割り当てようとおもう人がいる、ということにすこしヤバさをかんじる、ってこと。
ベジタリアンの恋人に、「最近野菜食べてる?」って声かけることがあったっていいじゃない。
ねむりにつくまえのぐちゃぐちゃを、ここに
そもそも、人間なんて過小評価か過大評価しかしないしされないものであるけれども、そこに安住することがある生きづらさを生み出しているのではないかと思う。できればその過小でも過大でもないところがきっと存在する。いや存在しないのかも。
一点があるということを無意識的に前提していたけれども、必ずしもそうではないのではないか。
人間は点ではない、もちろん線でもないし、当然そのまま数学的に考えたらたどり着くように、面でも体積を持ったものでもない。
私たちは空洞である。
輪郭のない、空洞。
それはただの無じゃないか。一理あるのかも。
確かに一面ではそれは正しいのかもしれない。
でも、しばしばいうようなマイナスの価値判断としての無ではないような気がする。
からだの中に闇を感じることはありますか。
わかりやすい言葉で言えば、フロイト的な無意識(もちろん無意識は意識できないので、意識の不在という形でそこに近づく)。
わかりにくい言葉で言えば、肉の盲点のような部分と言えそう。
その闇を空洞、輪郭のない空洞と言えそうだ。
つかもうとすること自体が間違っている。
だから、当然過小評価も過大評価も、それが評価である意味で成功するはずはないし、闇に対して基準を当てはめることはできない。
搾取読書
ああ、この人は自分の都合のいいように、都合のいい部分だけを味わう人なんだな、っていうのが本の感想、レビューを見ていると思うことがある。おのれがたえず変わっていくことが読書、経験、哲学、ひいては人生であるはずなんだけれども、自分は確と変わらずにいたい、なんていう無理を、自分が正しいのだ、変わってはいけないのだ、という傲岸さを、見てとることができそうです。そんな人はどれだけ名著と呼ばれる本を読もうが、読めることはない。経験を積めることがない。哲学しない。生きない。そして、おもしろいものがどこにもない、ない、ない、と受動的自虐的趣味に走り、延々生き'延びる'。
ある人は、どんなものからも常に変化を受けることを知り、それを拒みもせず、何かしらを学んでいる。
後者でありたい。
「自分を大切に」
若さに固執、それは過失
「私はもう若くないから……」こういうことをおっしゃる高齢の方、いらっしゃいますよね。わたしからしてみればこういうことをおっしゃる高齢の方々も若いと思うし、若いと言われるわたしたちもけっこう年老いていると思うんだけど…。
なぜこんなことを少なからぬ高齢者が好んで言うのか、ちょっと考えたので書いておこうと思います。
まず、多くの人間は美しさを求めますが、若さと美しさを混同してしまっています。おそらく化粧品のコマーシャルのようなメディアがそれに一役買っているせいだと思いますが(アンチエイジング云々なんてまさに!)、必ずしも若さと美しさは一致しません。幼子の肌の潤いに美しさを見出だす一方で、しわくちゃのおじいちゃんおばあちゃんの手も美しいと感じる。
けれどもやはり多くの人は若さに執着してしまうもの。おじいちゃんおばあちゃんが美しくても、自分「は」若い美しさを保っていたい、と、皺を隠し、白髪を染める。でもやはりそれにも限界が来るわけで、作ったニセの若さは、若者の若さ、そのままの若さには敵わない。そこで先手を打っておこうと考える。「私はもう若くないから……」
でも、自分が若くないのだとしたら、目の前にいる「若者」と老いた「わたし」とで何が違うのだろうか。そこで持ち出すのが「年の功」という名の代物です。自分はずっとずっと若さにこだわりつづけてきたのに、「若者」を前にしたときにだけはこの代物を持ち出す。たしかに数十年生きながらえることはただでさえ難しいし、全くそれが価値のないものではないとは思う。けれども、年ゆえの楽しみ、美しさを見ようとしないで若さにこだわることしかしてこなかった人間の口から何が出るのでしょうか。せいぜい「若い時代を大切にしなさい。」こんなところが関の山だと思います。そしてこの言葉を真に受けた若者がいつか年老いたとき、同じ事をまた次の世代に言うのです。「若い時代を大切にしなさい。」若者賛美が再生産。
それぞれの時期をそれぞれの時期に享受し、味わった人間の口からはこういう言葉が出るのではないでしょうか。「若い時代'も'楽しみなさい。そして生き延びなさい。」と。こういうことが口にできる人生の先輩には今まで1人しか会いませんでした。きっと難しいんだと思う。「若さ」の誘引力って、すごいんですね。年を取ることも楽しみにしたいですね。
「おのが年齢にこもる英知を具えねば、年齢にこもるわざわいがことごとく生ずる。」
──ヴォルテール
「時間は大切だよ」を伝えるのに小一時間
時間の大切さについて小一時間ほど説教を受けました。はじめはこれはある種の喜劇なんじゃないかと思っていたのだけれど、実は本当にその説教の通りなのかもしれない、と思うようになった。時間の大切さを説くのであれば、その時間は短いに越したことないように思える、「普通に」考えれば。数分で終わらせてくれ、と思うのは自然なことのように思えます。でももしかしたら、時間が大切というのはきっと、節約すること、効率を求めること、ではなくて、その激流にあえて身をさらすこと、そこに味わうこと、痛みを受け入れること、なのではないか、と思ったわけです。その小一時間に埋没しきること、それが時間を大切にすることなんじゃないかと。今回の説教でなくとも、時間はいつも流れている、そこに身をあずけることはできるのではないかと。
先日、いつも使っている電車が人身事故の影響で運行見合わせになっていた。都会で人が止まっているというのには滑稽味を感じるものだけれども、事故でも災害でもなんにしても、電車が止まってしまったときの「都会人」の頭の上には「時は金なり」の吹き出しが見えそうなものです(時間をお金に換えられるなんてのはたとえにしても無理があるし、それを信じてお金に使われていることに無自覚なのもまた滑稽ではあるけれど)。少女モモは止まっている大人たちを見て、はじめに吹き出したのではなかろうか、なんて思ったりしました。
ふと足止めを食ったり、何にもない時間ができてしまったりしたとき、一息ついて、まあこういう時間もあるよね、なんて思えるようでありたいです。予定がなくても、なにもしなくても落ち着いている人は、きっと豊かなのです。
- 作者: ミヒャエル・エンデ,大島かおり
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/06/16
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うつくし
必然的なものだけが美しいのです。自己顕示欲や「政治的な」意図、それからルサンチマンの発散、そういったものの手段であってはいけないのです、美は。今までの経験や想念が折り重なり、重なって終に、語り出さずにはいられなくなる。そういうものとして美はあるのだと思う。ドロドロの自我を固着させるために、今はそれでいいのかもしれないけれども、それで美をつかんだような気になっていてはたぶん、よろしくない。花が美しいと言われるのは、その咲き方、咲く環境が必然必要だから、ある名画が美しいと言われるのは、その構図、線の位置、色、もろもろに無駄なものがないからなのです。どうか忘れないでいてほしい。必然は永遠でもあるのです。必然を通して、時間を超えられるのです。
この季節、わたしは泣いてしまう
オリンピック、この季節、わたしは泣いてしまうのです。涙にはいろんな、意味が与えられる、よろこび、いかり、かなしみ…。どれがって言えそうにはないけど、強いていうなら悲しみが近いのかもしれない。「○○選手!よくやった!さすが日本の誇り!」
トップアスリートがいる地点、そこは人類の最尖点、といっていいだろうか。自分のトレーニング環境を用意してくれているという意味で、自らの属性、すなわち国や民族や施設やに感謝することはあるだろう。けれども、選手に自分が日本人だけの代表であるという意識は果してあるのだろうか。思うに、人類の代表の意識をより強く持っているのではないだろうか。
オリンピックでは人類の限界が目指されている。それは強さかもしれないし、速さかもしれないし、美しさかもしれない。もちろん評価基準としてのこれらだけではない。そこにいたるまでのストイックさや、集中力も含めて、人間がここまでたどり着くことができた、ということを祝する祭典なのだろうと思う。
だからアスリートたちはライバルを讃えることをよく知っているし、勝ったのは自分だが、自分たちが勝った、という感覚も持っているのではないかと思う。負けたとしても、やっぱりそこには透き通った悔しさがあるのだと思う。「もっと進むことのできた人間がいた。」
スポーツに政治を持ち込むのは違うという。わたしも同感です。でも、政治的に対立している国に所属する選手が互いにたたえあっているのを見ると、私たちは同じ人間なんだ、ともに同じ時期に人類に生まれついたのだ、ということを悟らざるを得ない。
テレビの前で寝転びながらぐーたら見るオリンピック。それもいいのかもしれない。あるいはテレビでも見ずに、でも翌日の朝刊で「自国の」選手の金メダルを知って、ナショナリズム的な感情に恍惚を覚える。それももしかしたらいいのかもしれない。でも、あまりにもテレビの向こう側とこちら側との乖離が大きすぎて、わたしは泣いてしまうのです。
小平奈緒、五輪新で金 スピード500m 日本女子で初 - 2018平昌オリンピック(ピョンチャンオリンピック)- 五輪特集:朝日新聞デジタル
おせっかいさんのあなたに
案外「乗り越えた人」というのがときに厄介だったりするのです。死にたい気持ち、とか、受験浪人、とか、ガン、とか、リストカット、とか、肉親の死、とか、不妊、とか。いろんなものがここには入りそうだけど、たぶん一般的によくないとされているもの、ならけっこうなんでも入るのではないでしょうか。こういう「よくないもの」っていうのは苦難であり、そして苦難ってのは基本的に個人的なものだと思うんですが、厄介な場合というのは、自分の経験を過度に一般化して、まだ「乗り越えられていない人」に押しつけてしまうときなのだと思います。個人的なものであれば、乗り越え方にもいろいろな形があり、乗り越えるのに必要な時間やもの、きっかけも様々であるはず。もしかしたら乗り越えること自体できないかもしれない。だけど押しつけてしまう人がいるのです。その苦難がより特殊なケースであったり、(この判断は主観的なものだけれど)より苦難の度合いが高いときには、より押しつけに拍車がかかりそうな感じがする。また、厄介なのは、「こっち側の人」であるが故に反論しづらいところなんですよね。しかも輪をかけて面倒なのは、「あなたのためを思って」とか「自分が力になってあげなきゃダメ」みたいな変な正義感(多くの場合、偽善です)も一緒に抱いているんですよね。厄介です。
苦難は主観的なもの。自分で乗り越えなければいけない。ある人ははしごを手に入れてそれを使って越えたのかもしれない。でもまた別の人は素手を擦りむきながら登るのかもしれない。あの人と同じ種類の壁だと思っていたものが、自分だけのものかもしれない。必要があれば人の手を借りればいいのだと思う。でも言われる前から手を貸そうとする必要、はない。厄介な存在は近いところにいることもある。とても大切な存在が遠いところにいることもある。なんとか守ること、いや、うまくいなすこと。これができるようでありたいものです。