吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

なにをまなんでいるのか

 学者、とか研究者、とかさも当たり前のように私たちは口にしているけれども、それは果たして並列なものなのだろうか。
 大学には学部がある。文学部、法学部、経済学部、理学部、工学部、医学部、歯学部、薬学部、などなど(思いつく有名なものを挙げました)。でもこれらがすべてではないし、学部横断的な研究も為されたりする。また、学部の中には学科がある。文学部でいえば、大きく文学、史学、哲学に分かれるのかもかもしれないし、理学部には数学科、物理学科、化学科等がある。大学によってもこれらの分け方はさまざまで、あるところでは学科扱いのものが、別の大学では学部扱いをされていたりする。
 さて、このような見方に私たちは慣れてしまっているので、まるで自分の新しい服を選ぶみたいに、好きな色を答えるように、大学進学の際に学部選び、学科選びをする。でもこれらは並列なのでしょうか。
 誰の言葉か分かりませんが、次のような言葉を聞いたことがあります。「生物学は化学に、化学は物理学に、物理学は数学に、そして最後に数学は哲学に行き着く」のだそうです。聞いたときにとても納得したのを覚えてますが、たしかにそんな気がしないでもない。哲学は学問を基礎づける「学問の学問」と呼ばれたりもしますしね。物理学者が物理学の学者であったり、英文学者が英文学の学者であったりするのと、哲学者はわけが違います。哲学とは、既存の思想を学ぶことではなくて、己が哲学することしか学べないからです。既存の学問が成り立つその根拠を求めるものなのです。だから哲学者においては、「哲学する者」なのではないでしょうか。
 今挙げたのは哲学の例ですが、もちろん他の学問領野に関してもすべてが並列であるはずはありません。医師(医学)は薬学の知識を十分に備えている必要があります。
 実際、大学受験のときにここまで考える余裕がある人はほとんどいないと思います。また、大学進学者は学問をするために大学に行くつもりのある人ばかりでもありません。ただ、学問とは、とか、この世の成り立ち、とか、社会がどう回っているのか、とかを考えようとしたら、こういうことを考えてみてもいいのかもしれません。
 人に訊ねるときには、「何学部ですか?」よりも「何を勉強なさってるんですか?」って聞きたいものですね。カテゴリーではなく、「その人」のことを問うことになりますしね。

俺たちってすげえよな!!

 俺たちってすげえよな!ってやる人多いですよね。ジェンダー論的にこれを見るなら、ホモソーシャル的な関係をそこに読み取れそうなものですが、すなわち男社会の産物であると思うのですが、この「俺たち」がいかに狭い範囲しか指し示していないか、ということを世の「女」はよく知っているのではないでしょうか。男を立ててくれる女、なんて言ったりしますが、案外内心では可愛がられていたりするものなのです。そして意識か無意識か、男もそうして可愛がられることを望んでいたりする。
 ホモソーシャル、という概念はミソジニーホモフォビアという言葉と同時におさえている必要があります。ここに少し例を挙げて説明しましょう。小中高大、あるいはその他のコミュニティーでもいいですが、群れている男の子グループを想像してください。彼らは、「俺たちって○○だよな!」なんていって鼓舞しあい、「△△行こうぜ!」なんてしているわけです。ところがここで、「ごめん、今日は彼女と会うことになってて…」とか、「今日は女房と過ごすことになってて…」とかって言って誘いを断る人がいたとします。そうすれば、その人はナヨナヨした女々しいやつだということになり、ハブられたりする。と、このような場合がある。このときに、「俺たちって○○だよな!」や「△△行こうぜ!」って群がろうとするのが、「ホモソーシャル」的な関係です。同性愛的なコミュニティーということになります(注意してほしいのは、だからといってこの人たちが実際に同性愛者であるかどうかは別の話です)。続いて、誘いを断ったやつを糾弾するシーンがありました。これは「ホモフォビア」です。同性愛的な関係にある男たちの中からハブられる。フォビア、すなわち嫌悪です。そして、これが成り立つためには、男より女の方が劣っている、俺たちの集団の方が女よりもいいだろう、という前提が必要で、これが「ミソジニー」。単なる男尊女卑ではないのですが、これ以上は気になった方が調べてみてください。読んで分かりやすかった文献を最後に挙げておきます。
 さて、説明が長くなってしまいました。「俺たちってすげえよな!」は決して悪いものばかりではないと思います。仲間のために戦うところに美しさを見出だすのはここから説明することもできそうですよね。
 そして、これが悪いものではないと思うのと同時に、これが気持ち悪いと思うのがあり得るように、私たちには男性的な側面と女性的な側面がある。どんなに男らしい人でも女性的な部分はあるし、どんなに女らしい人でも男性的な部分がある。比率はさまざまで、片方の極からもう片方の極までグラデーションのように段階が無数にあるのです。
 そして、「俺たちってすげえよな!」の良い面を生かすなら、「俺たち」に入る人を拡大することではないでしょうか。すなわち、どの人にも男性的な部分、女性的な部分があるのだから、みんなが「俺たち」でいいじゃないか、というふうに。ここまで来ると、「男性性」も「女性性」もあまり意味を為さず、ただ人間の「群れる習性」や「群れない習性」というふうに言った方がいいのかもしれません。もちろんこれは一面的な見方ではありますが、仮に「俺たち」が全人類や、生きとし生けるもの、ひいてはこの世のすべて、となれば、それが成就した日は、平和の始まりなのかもしれません。
 自分のサークル、会社、学校、民族、国家。この程度に「俺たち」を押し込めていてはもう遅いのです。企業のトップや、国のリーダーたる人は、このレベルを超えてものごとを考えているのだと思います。それをメディアに歪められた、断片でもって、あるいは狭い視野でもってその人たちを判断するのはなにかしっくりこないものを感じる。
 「俺たち」がすごいのは、この大きなコミュニティーの一部をなしているからだし、この大きなコミュニティーが発展する意味において、俺たちのやっていることはすごい、と思えるように、そう思える人が増えたらいいですよね。アドラーの言う「共同体感覚」に近いのかもしれない。
 長くなりました。身近な狭めの「俺たち」で動いている人たちは可愛がってあげること、もっと広い「俺たち」の存在を示唆すること。私たちはもっと大きな私たちであれるはず。

 

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

 

 

うまれ、うずまれ

人を糾弾することばも、人を褒めちぎることばも、なくなってしまえばいいのに、なによりぼくたちに必要なことばは、「頑張れ」でも「頑張ったな」でもなく、「ともにがんばろう」ってことばであるはずだし、自らを棚に上げてどうこうする時代、そんなことができると思い込む時代は過ぎ去ろうとしている。ぼくたちはここにいる。たまたま同じタイミングにここにいる。だから、ともにがんばろう、なのです。異常事態に陥ったとき、赤の他人だった人と連帯感が生まれることがある。いま、ぼくたちがここに生を享けていること、これだけで異常事態だろうし、沈没船で殺し合う、閉じ込められたエレベーターでケンカをする、なんてことしている場合ではないのさ。自らを埋めろ、この場所に。自らで写せ、この現在を。ここに生きよう。ともにがんばろう。

深淵さん

 「おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」ってニーチェの言葉がありますよね。『善悪の彼岸』からの引用だったと思います。原典に当たってないのでなんとも言えませんが、わたしなりにこれを言い換えてみようと思います。
 ある人を馬鹿にしたときには同じ仕方でその人も馬鹿にされていることになるし、5万円で春を買った人は、自らを5万円の価値に貶めていることになるし、ひんやり冷たくきもちいいタイルを触るときには、タイルに触られている、ってことですよね。主体と客体の峻別、きれいな二分論、もうそろそろこれにはおさらばのときだと思うのですが、いかんせん二分論にわたしたちは慣れすぎてしまっていて、想像するのが難しい。だからこうして例をはさんで考えてみました。
 わたしはあなたで、あなたはわたし。ことばあそびやたとえじゃなくて、本当にそうなんだって、知っている人はいつもそこにいたよ。

かりものばっ借り

 借り物にかんしてふと思ったこと。図書館で借りた本はなんとしても期限内に返したい。他方のレンタルショップで借りたCDやDVDは延滞料金を払いますからごめんなさい…!と期限に対する意識がルーズになる。一部の吝嗇家は違うのかもしれないけれど、わたしはこうなのです。
 たぶん図書館は借りるのにお金がかからないからで、レンタルショップではお金が発生しているからだと思うのですが、やっぱり人間、借りをつくりたくはないものなのではないでしょうか。(マルセル・モースという文化人類学者が『贈与論』という本で言っていますが、わたしたちはもらったものに対して返礼義務を感じる。給付に対して、反対給付をする必要を感じるのです。そうしないうちは自分は借りを負っている、相手より立場が下であることを認めることになる。)図書館は公共物なので住民税やらなんやら、所属する自治体にお金を払っているから利用できるのですが、それは普段なかなか意識されない。タダで借りているような気分になる。だから、これ以上借りを作ってはいけないと思う。図書館では返却期限を過ぎた場合の、その埋め合わせの方法がないのです。たまにひどい扱い方をされた本を見かけたりしますがやっぱりそれも細かくは追及されていませんものね。レンタルショップならば、2泊なら2泊分、1週間なら1週間分の料金をその場で払っている。延滞しても、延滞1日あたりいくら、と料金が設定されている。だから、延滞したらまあその分払えばいいか、なんて考えになってしまう。金さえ払えばいい、なんて考えは金に使われているようでわたしは好かないけれども、実際その側面もあるわけです。一番いいのはちゃんと期限内に返すことなのですが、でも期限が迫ってきたときってこういうことを考えてしまいますよね。
 じゃあ今度は友人に借りたものはどうなんだろう、って思ったのですが、経験上、一番ルーズになってしまいますね。基本的には期限がないし、お金のやり取りもそこにはない。
友人に貸すときもそこまで考えない。たぶん友人だからです。
 ああそういえば、明日返却の本を図書館から借りているのでした。明日はなんとしても図書館に向かわねばなりません。

ノⅠ|

 川の字になって寝るという経験。今はどんどん少なくなってきている。核家族化が進行、それに従って増えるワンルームに住む人たち。それから生活の西洋化。畳が減りました。このことに良し悪しの評価を下そうとは思わない。下せるとは思わない。そんな権利が私にあると考えるのはひとつの傲慢だろうし、これは人間が、あるいは周りの人たち、日本人が選んだこと、私たちが選んだことだからです。
 ただ、川の字になって寝ること、これにはこれの良さもあるなあ、と思ったものでして、それを書いていきたいなあと、川の3画目の位置からスマホをいじっているわけであります(変な時間に目が覚めてしまって寝れない)。

 普段はひとりで寝る私ですが、たまに家族と一緒に寝ると、寝息やいびき、寝返りなど、各々ひとりで寝ていては気がつかないような体のリズムを垣間見ることになります。これが何十年と続いていたら、そこに異変が起こったときもすぐに気づけるのでしょう。寝ているときの顔は誰しも無防備です。普段は気難しい顔付きをしている人でも、かなり顔の筋肉の力が抜けている。寝顔に赤子の姿を読み取るのは、赤子が変に力みすぎないで、からだを任せきりにしているからかもしれません。人間は野生の牙を抜かれている。その一側面は寝顔に出るようです。
 いびきや寝返りはときに厄介扱いされます。たしかに、うるさかったり、寝る場所が侵食されたりする。でも、それもときにはいいものなのかもしれない。みんな人間である。同じ床に同じ方向を向いて睡眠を取る。みんなで各々からだとこころの整理をしながら、違う夢を見て朝を待っている。人間に備わっている自然のリズム、自分だけではなく、他の人にも自然のリズムが流れている。それはときに近いビートを打つかもしれないし、打たないかもしれない。でも、たしかに人間である私の横に人間である誰かがいる。普段は静かな一人の部屋で寝ることを好む私ですが、すごく充たされたような気持ちにもなっている。
 白日のもと、川がまた分岐してゆく。各々の一日をまた送ること。夜には支流がまた本流に帰ってくること。

マズル。目線。撃鉄。

人間のマズルは眼窩だ、鼻ではない。視線こそが弾丸。目線で殺す、という。本当に目に撃ち抜かれているんだと思う。人の視線が痛いのはそれが無数の弾丸だからさ。緊張するのも、目が離せないのも弾丸だからさ。優しい人はときに目をキョロキョロさせる。ああ、人に銃口を向けたくないんだね。逆に不思議なまでに目を見つめてくる人がいる。そんな君には、「とりあえず銃を下ろせ。」目を合わせたときに不快に思う人がいる。心地よく思う人がいる。銃にも柔らかさってあるのかもしれない。銃にも種類がたくさんあるんですよね。ミリオタの知り合いはきっとうれしそうに話に乗ってくれます。できるなら、弾数の少ない銃がいいですね。持つならば。ここは銃社会ではないので、目線の銃くらいは磨いておきたいものですね。殺すために、ではなく。

「禁煙デー」がこわい

 禁煙デーってありますよね。あれが喫煙者の側から出たものでなければ、これ以上にエゴイスティックなものってないんじゃないかと思う。言い方を変えましょう。少し怖いんですよ、喫煙者を「撲滅」しようとする人たちが。これは私が喫煙者であるからというわけではなくて、人間の悲劇を少しは知っているがゆえに、です。目指すべきは、喫煙者と吸わない人との共存なんですよ。煙を吸いたい人が吸える環境に身を置けて、吸わない人が吸わずに済む環境を広げられたらいい。この両面を考えないといけない。先ほど述べた人間の悲劇、とはわざわざ言わずとも分かると思います。差別です。虐殺です。戦争です。それがいかに悲劇的であるかは私が語るまでもないでしょうし、もっと適任の人がいるでしょう。それより私に語れることがあるとすれば、自分たちが同じ悲劇を繰り返しうることに自覚的になれないことの悲劇です。
 嫌煙家はしばしばこう口にする。「体に害しかないんだからあんなものなくしてしまえばいい。」これが自分の価値観、自分の立場からの言葉でしかないことに気付かないからこういうことが言える。体に害があっても吸う人がいる、いやむしろ体に害があるからこそ吸っている人もいる、というふうに想像力を広げなければならない。自分と異なる価値観の人がいるということ、それを認めるだけの余裕がなければならない。過激な意見を並べ立てる人は(戦略的な場合は別として)余裕のなさそうな人が多いように思えます。これはタバコの話でしたが、そのまま国や民族にも当てはめられるでしょうし、もっと身近なところで考えれば、「不可解な行動を取るあの人」にも当てはめられると思います。
 そして、この自覚が足りないのは一部の喫煙者もそうです。歩きタバコ、ポイ捨てなんてのは非喫煙者の立場を考えていなさすぎる。遠回しにタバコや喫煙者へのヘイトを高めて自分たちの首を締めることにも気がついていない。もちろん、自分だけが吸えたらいい、という考えであると思われるので、他の喫煙者にまでも考えが広がっていない。子どもや妊婦がいたときに火を消す勇気があるかどうか、それは自分が子どもであれば、妊婦であれば、あるいは自分に大切な子どもがいれば、大切な人が妊娠していれば、という想像力に寄るところもありますが、やはりそこはバランスを取らねばならないと思う。
 そしてまたひとつ気をつけないといけないのが、私たちも、ただ彼らを非難するだけであればそれも同じ穴のムジナになるということ。嗜好品であるタバコでさえこうなのだから、国、民族、宗教、歴史が絡んでくれば難しいのは言うまでもない。でも難しいからといって諦めるのは違う。私たちには理性があり、想像力がある。身近なところから始めなければならない。それが世界を変えるかどうかは関係がない。己が生きるなかでただ、できることをし続ける。そうするだけの自由がある。

わたしたち、管

 口と肛門の関係、不思議なものだと思う。生物の授業でそれが一本の消化管であるとして教わるように、この二者は人間についている入口と出口というふうに言える。美味しそうに盛り付けられた食べ物がある。だがそれをぐちゃぐちゃに混ぜてしまえば不味そう、汚いということになる。それは食べ物が人間という一本の管を経て、混ぜられ、解され、溶かされていく過程をそこに投影するからではないでしょうか。食べ方が汚い、と言うとき、その人の口に汚いものとしての肛門を読み取るし、食べ方がきれいな人は尻の穴周りの手入れも行き届いているのではないかと、要らぬ想像もしてしまうものです。
 さて、尻の穴周りの手入れ、といえば、剃毛のことですが、私たちは必要以上に不安を煽り立てられていると思う。清潔感のために、身だしなみのために、だとか言って、体毛を剃る、髭を剃る。ときに残っている毛がセクシーに思われたり、そそったりすることがあるようだけれども、それも例外的な話であると、異端であると認識されているように思う。ベッドで冷めないように、なんて言ってるけれど、それも無意識のうちに必要以上の消費を促す宣伝の効果を受けているせいじゃないでしょうか。このことを詳しく書く場所としてはここは適していない。けれども、なぜこの煽動がうまくいくのか、ということに関しては一考に値すると思う。

 なぜ私たちは毛の薄い状態をよりよいと感じるのか。思うに、それは少年愛が根底にあるためではないでしょうか。少年愛といっても、少年を性的対象と見ること、少年相手に興奮を覚えることではなくて、そこに美を見出だすということです。プラトニック・ラブという言葉があります。今は体の交わりのない男女の恋愛を指すことが多い概念ですが、元は、年長者である男性が少年の成長を手助けする(ときに体の交わりもあったそうですが)概念です。この少年愛がきっと根底にある。少女愛ではあり得ない。大人たちが大人たちの美しさを評価する際の基準は少年の美に照らし合わせられる。毛の薄さも肌の白さも、その丸みも。大人の女性が美しいのは少女らしさがあるから、ではない。想像してみれば分かると思う。少女の美しさも元をたどれば少年の美しさに還元される。大人の女性が美しいとされるのは、少年の美しさを彷彿とさせるからです。何を根拠に、と仰る方が多いとは思う。残念ながらこれ以上の説明ができそうにはないけれども、己の経験を省みたら思い当たる節がある人はいるのではないでしょうか(その人たちにはむしろ充分すぎたのではないかとも思っているが)。
 以上は稲垣足穂氏のA感覚に関する議論を借り受けている。 

 

 

 

忘れたくない!忘れてしまった!

記憶を喪う怖さ。これを今ひしひしと感じている。わたしはお酒が好きです。そして、お酒を大量に飲むと記憶が曖昧になります。当然ですね。多少曖昧になるくらいならいいけれども、会話の内容を覚えていなかったり、思わぬことを知らないうちに口走ったりしていたりしたらそれはやっぱりシャレにならない。

そして今ひしひしと記憶を喪う怖さを感じているというのは、まさにそのシャレにならない酔い方をしたためでございます。

わたしたちは大切な話をしていた。わたし自身の話もしたけれども、相手の大切な話をいっぱい聞いた。そして、その残骸だけが記憶のあちこちに散らばっている。最近見た夢の話も混ざっていたり、街角でふと浮かんだ想念が溶け込んだりしている。境目がよく分からない。わたしはこわい。

人間のアイデンティティーはせいぜい己の記憶の連続くらいにしか見出だすことができないという現実がある。幼年期の思い出や、先週の失態、さっきの興奮、こんな自分の記憶、記憶、記憶が今のわたしの中にあるということ(あると思えているということ)が自分が自分であるということの証明になる。それでいうと、わたしはアイデンティティーを見失いかけているということができる(一時的なものではあるが)。自分が存在はしていたのに、それを認めることができない部分があるということ。アイデンティティーというのはかなりその人そのものである。わたしは今とても不安である。

不安の理由。それはアイデンティティーの喪失と、大切な話だったのに忘れてしまったという自己非難と。今日もわたしのスーパーエゴは大活躍。

認知症というのがある。直近の記憶から無くなっていくらしい。細かいメカニズムは知らないが、認知症が進行していく仮定でその人はとても不安になることがあるそう。それは、自分の記憶が穴ぼこになっている、ということが自覚できているとき。つまり、その人のアイデンティティーが失われそうなとき。記憶が明瞭な人と、逆に記憶を忘れて忘れて、忘れていることさえ知覚できない人にはこの不安はない。アイデンティティーの危機はないから。と、このように認知症の途中の段階にはこの恐怖があるらしい。

わたしはそれに近い状態にあると思う。もちろんこのまま記憶をなくしていくことはないはずだし、喪失した部分を挟んでまた今日から記憶が紡がれていく。でも、とてもこわい。不安に押し潰されそうです。

酒を控えようと思っている。まったくの断酒は現実的ではないけれども、記憶がなくなるほどの泥酔はしたくない。

記憶は人間を発展させもしてきたものでもあるけど、それはやはり業を備えている。わたしは自分の記憶をもっと大切にしたい。しなければならない。