吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

こねくてっど

つながってないのにつながってる恐怖。しゃべったことも、面識もないのに誕生日を祝ってくるは人たちは何様なのか。売名行為、あ、失礼しました、自己ブランディングですね、の一環で挨拶回りしてるようなのやら、定型文をただ送るだけ、というやつ。もう嫌気が差してるんですよ。ぼくが誕生日をどう捉えてるかとか考えずに、誕生日だから祝う、いや、祝うというよりただ定型文のメッセージを送る、という無神経さよ。毎朝、Facebook開いて確認するんですよね。AさんとBさんが今日は誕生日、明日はCさんだ、って。そして、この無人称的アルファベットが、ただの例ではなくて、そういう人たちにとっては本当に無人称なA,B,Cでしかないのだと思う。そうでないならぼくの返信にも多少は応答があってもよかろうが。だから、そういう人たちは以降、友達解除することにしました。Facebookは、ぼくの顔で、本名で、やってるものなので、あくまでも人間対人間の意識がほしいのです。「今、目の前にいるホンモノの人間」にしかなかなか実感を持ちづらいものだけれども、メッセージをくれた、あるいはメッセージはくれなかった「友達」のことは大切にしたいと思います。

p.s.
あ、しっくりくることばが見つかった。これモバゲーやらでよく耳にした「数友」ってやつだ。

 

 

 

ここまで勢いで書いたところで、彼らはなぜこんなふうにむやみやたらにすっからかんのメッセージを送るのか、ってのを考えてみたくなったので、それをまたゆっくり書こうと思います。

ほん

本を読むモチベーションっていろいろあると思います。仕事で、ゼミで、課題で、あまり興味のない分野の本を読むとなれば身は入らないかもしれない。でも扱われている内容が自分にとってとても関心のあることだったらきっと食い入るように読めると思う。

以上は内容から本を捉えたときの話だけれども、「内容」があれば「形式」もある。形式といえば、その本がハードカバーの単行本か、文庫本か、あるいはページあたりの文字数や、文字のない部分すなわち余白にどれだけスペースが割かれているか、それからインクの色、フォント、紙質、などなどと、挙げればキリがないのだけれど、この側面に少し目を向けてみたい。

といっても、「MECE」に!「要素分解」をして!「データ」を用いた!「客観的」結論を得よう!……というわけではなくて、紙媒体の本を少し愛でたいというだけのこと、すこし聞いてください。

 

今はKindleなどにみられるように電子書籍を見かけることが多くなりました。

Kindleのみでの出版(版を刷っていないのに出版というのは変な感じがするけれども)とか、今なら電子書籍何十%オフ、とかみるようになって、出版の手間とか、省けるし、そうなればその分安くもなるんだなーとか思うわけ。

でも本って読み物だけど、読み物であるだけじゃなくて、モノとしての側面もありますよね。
本棚が地面から天井まで、ずらーっと並んでいたら圧倒されるし(それは数の暴力的)、そうでなくても、ものすごい重厚感のあるものものしい装丁の古い本が卓上に置かれていたら何事かと思う(質の暴力的)。
夏目漱石全集や、ニーチェ全集を、モノでほしいとは思うけれども、Kindleで持ち運ぼうとは思わない。

積ん読本、とか言ったりしますが、あれはやっぱりちょっとした収集欲のあらわれでもあると思う。自宅の本棚、書斎を人に公開しなかったとしても、自己満足として、モノを集めておきたい、ということ。積ん読、わたしもしてしまいます。

本の「形式」のことを、装丁、と呼んだりするけれど、装丁を規格化して、安易に持ち運べるようにしたのが、文庫であり、新書であると思う。だから、持ち運びには文庫や新書は便利だけれども、単に持ち運びという点だけを見るなら、Kindleと競合しうる。

なんとなく本の未来を予想してみようと思う。
たぶん、ビジネス書をはじめとした、知識を得ることが主な目的の本は電子書籍の比重が高くなる。
そして、装丁に凝った本が、あるいはそういった本をメインに出版する出版社が出てくる。
そうした出版社はモノとしておもしろい本を作る。
紙のざらつきに特徴があったり、やたらと変わったフォント、ことばの配置があったり、本の形が直方体でなくなったり。

でもこの傾向は劇的には起こらない。
それは、電子書籍をよく聞くようになったのがここ数年内のことである、というのもそうだけど、やはり本を好む人にはアナログ的な部分で本を好むところがあるからだと思う。暗闇の中、必死にページを繰って本を読んだ経験、重たい国語辞典を学校まで持ち運んだ経験。そういった、モノとしての本に結びついた経験を備えている人が多くいる。だから、劇的には進まない。けれども少しずつは進んでいく。電子書籍にはバックライトがあるし、国語辞典は電子辞書の中に入っている。

今後どうなるのか。紙の本が手に入るうちはわりとどうでもいいけど、喫茶店で、電車で、Kindleの画面をスワイプしている人より、本を読んでいる人の方にわたしは惹かれる。

ひ、と

ひとをかたりはじめることで、ひとのひとりになっていく、そのことをしっているから、ひとはひとのことをはなすしひとでなかったころのじぶんをおもいだすことはもうない、ひとをかたるな、もうひとでしかなくなったからついでにつごうよくのうりにうかんだひとでなしを、ひとにすべくひとでなしのひとについておはなしをするんだ、ひとたちひとはあにめやげーむのいきものとはちがう、あんなにからふるではないし、じぶんのこせいをさがすところからはじめなければならない、るーるをやぶること(逸脱行動)ひとをいじめること(優越感)、ひとでないふりをすること(自虐)、じぶんさがしのたび(逃避)、ひきこもり(引籠)、そうやっておとなになっていくんだね、というありきたりのことばをはなしはじめたときからひとなんだね、ひとは、よわいいきものですつよいいきものです、すくいなんてひつようなかった、まだせかいをのろいながらしんでいくあいつのほうがひとでないはず、ひと(疎外性、(ひと(ひと(加虐性)、ひと(被虐性))、ひと(ひと(優越性)、ひと(劣等性))))

圧縮アンドfly

ルサンチマンの宛先でいたくないから弱者であろうと言った、それもまたルサンチマンだよね、ある永劫回帰(二留)した友人は、きみは人間っぽい人間っぽい、っていわれて、それは人間の度合いが高いことなのか、それとも度合いというものがあるとしてそれを超えたということなのか、と考えながら、6回目くらいのドイツ語の授業を受けている。純度の低いルサンチマンというのはどうしようもない。水の入ったグラスに注いだ牛乳のようなもので、味は薄いわ、しゃばしゃばだわ、で、でも口の中にはちゃんと牛の乳がまとわりついていて、なんだこの飲み物。そんな牛乳水をなんの料理につかえるというんだ。料理は普段しないけれども、ルサンチマンにはなんでもゆるされる。今日はすっかり冬が終わって春の1日です、午後。ほこりが焼かれていく匂いというのはときに感傷をさそうものだけど、なつのまだるっこい憂鬱を思わせもするね。少し死にたくなる。もう不要になったストーブが白っぽく……昼夜逆転中原中也の詩をこのむ。すべてが学生の道楽だと、そんなこといわれてたまるもんですか。ストレートで大学に入学し、ストレートで大学院にいき、ストレートでええかんじの企業に就職したストレートヘアーのストレートのきみ、曲がったことが嫌いだったよね、ってくせ毛のわたしはいいました。昨日、ちょっと高いノートパソコンを買ったのです。

 

SNSを見るしんどさ

あらゆる言説、表現活動は自己弁護の側面を持っている。 SNSなんかの変換の度合いの低いものだと特にそうだと思う。だから、SNSばかり見てると窒息しそうになる。僕みたいな人間は逐一ひとの投稿を対象化していないとどうにもやりきれない。だからしんどい時期にはSNSのフォローをはずしたり、投稿の削除やログアウト、アカ消し、アンインストール、をしてしまう。

どんな投稿であればしんどくないのか。あるいは僕のようなひとにしんどい思いをさせずに済むのか。いろんなパターンが考えられると思う。

自己弁護が自己ならざるものへの想像力を備えていればいいのではないか。それもいいのかもしれないが、想像しているというところにも「想像しているからいいでしょ?」という裏返しの自己弁護の雰囲気が見えることがある。そうすると、それもまたかえってエゴイズムを感じてしんどい。他者理解という名の、自己の正当性の確保です。

では「自己」が包括的に、非常に多くのひと、ものたちを含む場合にはどうなるか。それはしばしば人間存在に内在するどうしようもない(ように思える)性質への清々しい諦めや、「ひとそれぞれだよね」という相対化の形を取るが、そこまでできることはほとんどない。SNSは基本的に個人的なものだからだ。SNSは「高尚な」論証の場であるというよりは、地に足のついた特殊論をぶつ切りにこぼしていく場なのだと思います。

あるいは意味のないことば、意味のほとんど感じられないようなことばに流れる気持ちも分かる。やたらと更新頻度の高い人は、意味をインフレさせる点で、一投稿あたりの意味を減らしているといえる。だから、やたらと「うるさい」人のSNSには安心感がある。でも、わたしたち人間は意味を求めがちだから、わざわざSNSの画面を開いてまで、意味のないものを見ようとは思わない。

 

結局わたしが落ち着くのは、SNSをしない、という選択です。SNSで垂れ流すはずだったものを、なるべく表現活動に近いところにまで変換していく、捨象していく、という選択。ブログにするなり、絵にするなり、詩にするなり、それがわたしのやり方なのだと思う。

 

さて、ここまでかなりわたし自身の自己弁護をしてきたけれども、わたしだけの自己弁護ではないことを願っている。またこの話の続きをするかもしれない。
読んでくれてありがとう。

しんだし

いつも詩は「死んだ」ものらしい。

現代詩は、詩の形式で詩が死んだことを嘆いているものだ、みたいなのを聞いたことがあるし、今、酒を飲みながら読んでいる李白も、彼の五言古詩で正しい詩歌は久しく廃れたままだ、と言っている。

いつだってわたしたちの時代認識は遅れているものなのだ。
本当に詩を遡るなら、わたしたちはラスコーの壁画にまで戻らなければならないような気がする。今、死んでいて、李白のときに死んでいて(古代ギリシャのときは生きていた? アリストテレスの「詩学」がちらつくが)、ずうーっとさかのぼればもう、そこまでいってしまうのではないか。

 

原初の、どうにもならず溢れ出てきたあの「うた」にまで。

 

実は生きていたのかもしれない、でもわからない。

今も生きているのかもしれない、でもわからない。
死んでこそ、わたしたちに見えるものかもしれない。
死なないと、わたしたちに見えないものかもしれない。

 

意味のない三月十一日午前四時の話

目が覚めているまま、こわい夢を見た。けっして、現実がこわいとか、いやなことがあったということではない。ひとつ、のぞいてはいけないものをのぞいてしまったような後ろめたさが、顎から糸を引いて垂れている。不気味に背の足りない幼子が、母親に抱かれている。あなたもよ。そういってみんなが自分の中へ中へと廻転をはじめる。肉が尽きることなく、ただひたすらに正中線へと呑み込まれてゆく。母も。妹も。熱を出して、豆電球の橙色の隙間からかいまみた景色に似ているのかもしれない。業か。からだの深い深い闇で水滴が震えている。背中を冷やして肩甲骨に固着していく。ああ、目を覚ましておくれ。この今に、どこからか吹き出しているあの黒い煙を吹き消してくれ。そして、その強風にも怯えて断崖に立つぼくを抱きしめておくれ。いつも筒のはしっこにはかなしみとよろこびが綱引きをしていた。ここにいさせてくれ。ここをさわらせてくれ。ふれるまえに。きがふれてしまうまえに。ふるえのすえ、とんでいってしまうまえに。

いるだけで、うばう

存在することの暴力性。

ただいるだけで暴力。

わたしはだれかの無で、わたしの無がだれかの存在である。

じゃあ死ねといっているのか、といわれたら、そうではない。死んでも存在はなくならない。いた事実、あるいは未来の呼び水としていつもそこにいる。

わたしが存在を示せばしめすほど、だれかは暴力を振るわれている。逆もまた然り、だれかがそこいることはわたしへの暴力だ。

「暴力を振るうのはいけません。」
だから暴力を振るわないでいたい、というのではない。すでに振るっている。すでに振るわれている。いたい。

卑屈になって、なって、おのれを消し去ろうとして、そうすることでひとにやさしくあろうとする。でも消し去ることはできない、見て見ぬフリ。ちゃんとここにいるおのれのいないフリ。卑屈の皮をかぶって実は傲慢か。

でもそんなフリはできない。
ここにいないフリをすることができないのさ。
もうあってしまっている。
もうすでに、ここにあってしまっている。

 

暴力とはなにか。他人の一部を殺すこと。

であれば、殺さずには生きられないのがわたしたちだ。
晴れやかなコロシはあり得るのか。

ぐちゅぐちゅ暗くて湿っぽいコロシを感じてしまいます。
それは手をくだしていない牛肉の牛丼。
カラフルなプラスチックに包まれた、コンビニ弁当。

 

いること、暴力。

それを超える供儀。

生と死のダンス。

 

もう少し考えることがある。

二口目のビールが教えてくれたこと

いつかの自分に言ってやりてえ
「生きている」実感は欺瞞だ
真に生きている瞬間にはその「生きている」さえも超越している

 

超えろ超えろ
超越、ニーチェは言ったなあ、超人たれと、
燃えた瞬間が勝負だ、超えろ、破壊せよ
充せ、充せ!!

 

充溢、溢れろ、心から体からあらゆる容れ物を破るのだ、
まだ見える、まだ見えるぞ、あの水泡の音をきけ

 

水底深く、熱い熱い地球が溢れたがっている、地球が!

 

響け、大音量を超えて、大きな岩石の拡声器だ、ここは

 

俺たちは響く、共鳴

 

 

音である

 

溶岩である

 

閃光である

逃げるな、振り返るな、焦るな

雑誌を見るのが、新聞を見るのが、こわい。

特に自分にとって大切なテーマが扱われていたりすると、鼓動が速くなるのも、耳の裏がピリッとするのも、交感神経。

人は変わるもの、でも人が変わるのよりもずっと速い速度でモノが変わっていく。自分が変わりきれないままに、変化の激流に身を曝しているよう。老いの始まりかもしれない。自分の遅れを自覚、そこに恐怖をまた自覚。チンタラしている自己を見せつけられるからか。逃亡中の己と辻で会う気分さ。

尖端に対する恐れがあるのか。

わたしは極端に陥ることが多い、それが好き。
だから、尖端にいるならその一番鋭い一点を目指す、そうでないなら針を数珠つなぎに紐に通している、どちらかでいたい。これもまた逃避だと思う。
わたしが表現者であるならば、この逃避に身を任せず、恐怖を、葛藤を受け入れ、受け入れきれない部分で肋骨を劈く、ひらくことが先決必至。

ああ、歌え、捏ねろ。
脳髄を浸せ、ええてる。
さあ、町へ出ろ。必要なものを、買え。つくれっていってる。