吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

SNSを見るしんどさ

あらゆる言説、表現活動は自己弁護の側面を持っている。 SNSなんかの変換の度合いの低いものだと特にそうだと思う。だから、SNSばかり見てると窒息しそうになる。僕みたいな人間は逐一ひとの投稿を対象化していないとどうにもやりきれない。だからしんどい時期にはSNSのフォローをはずしたり、投稿の削除やログアウト、アカ消し、アンインストール、をしてしまう。

どんな投稿であればしんどくないのか。あるいは僕のようなひとにしんどい思いをさせずに済むのか。いろんなパターンが考えられると思う。

自己弁護が自己ならざるものへの想像力を備えていればいいのではないか。それもいいのかもしれないが、想像しているというところにも「想像しているからいいでしょ?」という裏返しの自己弁護の雰囲気が見えることがある。そうすると、それもまたかえってエゴイズムを感じてしんどい。他者理解という名の、自己の正当性の確保です。

では「自己」が包括的に、非常に多くのひと、ものたちを含む場合にはどうなるか。それはしばしば人間存在に内在するどうしようもない(ように思える)性質への清々しい諦めや、「ひとそれぞれだよね」という相対化の形を取るが、そこまでできることはほとんどない。SNSは基本的に個人的なものだからだ。SNSは「高尚な」論証の場であるというよりは、地に足のついた特殊論をぶつ切りにこぼしていく場なのだと思います。

あるいは意味のないことば、意味のほとんど感じられないようなことばに流れる気持ちも分かる。やたらと更新頻度の高い人は、意味をインフレさせる点で、一投稿あたりの意味を減らしているといえる。だから、やたらと「うるさい」人のSNSには安心感がある。でも、わたしたち人間は意味を求めがちだから、わざわざSNSの画面を開いてまで、意味のないものを見ようとは思わない。

 

結局わたしが落ち着くのは、SNSをしない、という選択です。SNSで垂れ流すはずだったものを、なるべく表現活動に近いところにまで変換していく、捨象していく、という選択。ブログにするなり、絵にするなり、詩にするなり、それがわたしのやり方なのだと思う。

 

さて、ここまでかなりわたし自身の自己弁護をしてきたけれども、わたしだけの自己弁護ではないことを願っている。またこの話の続きをするかもしれない。
読んでくれてありがとう。