吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

俺たちってすげえよな!!

 俺たちってすげえよな!ってやる人多いですよね。ジェンダー論的にこれを見るなら、ホモソーシャル的な関係をそこに読み取れそうなものですが、すなわち男社会の産物であると思うのですが、この「俺たち」がいかに狭い範囲しか指し示していないか、ということを世の「女」はよく知っているのではないでしょうか。男を立ててくれる女、なんて言ったりしますが、案外内心では可愛がられていたりするものなのです。そして意識か無意識か、男もそうして可愛がられることを望んでいたりする。
 ホモソーシャル、という概念はミソジニーホモフォビアという言葉と同時におさえている必要があります。ここに少し例を挙げて説明しましょう。小中高大、あるいはその他のコミュニティーでもいいですが、群れている男の子グループを想像してください。彼らは、「俺たちって○○だよな!」なんていって鼓舞しあい、「△△行こうぜ!」なんてしているわけです。ところがここで、「ごめん、今日は彼女と会うことになってて…」とか、「今日は女房と過ごすことになってて…」とかって言って誘いを断る人がいたとします。そうすれば、その人はナヨナヨした女々しいやつだということになり、ハブられたりする。と、このような場合がある。このときに、「俺たちって○○だよな!」や「△△行こうぜ!」って群がろうとするのが、「ホモソーシャル」的な関係です。同性愛的なコミュニティーということになります(注意してほしいのは、だからといってこの人たちが実際に同性愛者であるかどうかは別の話です)。続いて、誘いを断ったやつを糾弾するシーンがありました。これは「ホモフォビア」です。同性愛的な関係にある男たちの中からハブられる。フォビア、すなわち嫌悪です。そして、これが成り立つためには、男より女の方が劣っている、俺たちの集団の方が女よりもいいだろう、という前提が必要で、これが「ミソジニー」。単なる男尊女卑ではないのですが、これ以上は気になった方が調べてみてください。読んで分かりやすかった文献を最後に挙げておきます。
 さて、説明が長くなってしまいました。「俺たちってすげえよな!」は決して悪いものばかりではないと思います。仲間のために戦うところに美しさを見出だすのはここから説明することもできそうですよね。
 そして、これが悪いものではないと思うのと同時に、これが気持ち悪いと思うのがあり得るように、私たちには男性的な側面と女性的な側面がある。どんなに男らしい人でも女性的な部分はあるし、どんなに女らしい人でも男性的な部分がある。比率はさまざまで、片方の極からもう片方の極までグラデーションのように段階が無数にあるのです。
 そして、「俺たちってすげえよな!」の良い面を生かすなら、「俺たち」に入る人を拡大することではないでしょうか。すなわち、どの人にも男性的な部分、女性的な部分があるのだから、みんなが「俺たち」でいいじゃないか、というふうに。ここまで来ると、「男性性」も「女性性」もあまり意味を為さず、ただ人間の「群れる習性」や「群れない習性」というふうに言った方がいいのかもしれません。もちろんこれは一面的な見方ではありますが、仮に「俺たち」が全人類や、生きとし生けるもの、ひいてはこの世のすべて、となれば、それが成就した日は、平和の始まりなのかもしれません。
 自分のサークル、会社、学校、民族、国家。この程度に「俺たち」を押し込めていてはもう遅いのです。企業のトップや、国のリーダーたる人は、このレベルを超えてものごとを考えているのだと思います。それをメディアに歪められた、断片でもって、あるいは狭い視野でもってその人たちを判断するのはなにかしっくりこないものを感じる。
 「俺たち」がすごいのは、この大きなコミュニティーの一部をなしているからだし、この大きなコミュニティーが発展する意味において、俺たちのやっていることはすごい、と思えるように、そう思える人が増えたらいいですよね。アドラーの言う「共同体感覚」に近いのかもしれない。
 長くなりました。身近な狭めの「俺たち」で動いている人たちは可愛がってあげること、もっと広い「俺たち」の存在を示唆すること。私たちはもっと大きな私たちであれるはず。

 

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー