吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

ノⅠ|

 川の字になって寝るという経験。今はどんどん少なくなってきている。核家族化が進行、それに従って増えるワンルームに住む人たち。それから生活の西洋化。畳が減りました。このことに良し悪しの評価を下そうとは思わない。下せるとは思わない。そんな権利が私にあると考えるのはひとつの傲慢だろうし、これは人間が、あるいは周りの人たち、日本人が選んだこと、私たちが選んだことだからです。
 ただ、川の字になって寝ること、これにはこれの良さもあるなあ、と思ったものでして、それを書いていきたいなあと、川の3画目の位置からスマホをいじっているわけであります(変な時間に目が覚めてしまって寝れない)。

 普段はひとりで寝る私ですが、たまに家族と一緒に寝ると、寝息やいびき、寝返りなど、各々ひとりで寝ていては気がつかないような体のリズムを垣間見ることになります。これが何十年と続いていたら、そこに異変が起こったときもすぐに気づけるのでしょう。寝ているときの顔は誰しも無防備です。普段は気難しい顔付きをしている人でも、かなり顔の筋肉の力が抜けている。寝顔に赤子の姿を読み取るのは、赤子が変に力みすぎないで、からだを任せきりにしているからかもしれません。人間は野生の牙を抜かれている。その一側面は寝顔に出るようです。
 いびきや寝返りはときに厄介扱いされます。たしかに、うるさかったり、寝る場所が侵食されたりする。でも、それもときにはいいものなのかもしれない。みんな人間である。同じ床に同じ方向を向いて睡眠を取る。みんなで各々からだとこころの整理をしながら、違う夢を見て朝を待っている。人間に備わっている自然のリズム、自分だけではなく、他の人にも自然のリズムが流れている。それはときに近いビートを打つかもしれないし、打たないかもしれない。でも、たしかに人間である私の横に人間である誰かがいる。普段は静かな一人の部屋で寝ることを好む私ですが、すごく充たされたような気持ちにもなっている。
 白日のもと、川がまた分岐してゆく。各々の一日をまた送ること。夜には支流がまた本流に帰ってくること。