吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

「自分を大切に」

 
 偏った物言いで書いた記事、2ヶ月くらい前のもの。なんでおもしろいと感じないのか、ボケっと考えてみた。
 
 思うに、たぶん、我が強いからだと思います。そういう私心丸出しの文章が好きな人もいると思いますが、わたしはそうではない。「見てくれ見てくれ!」っていわれても、はい見たよ、で止まってしまうんですよね。なんだろう、開かれていない、というか、かかわり合う部分、重なりあう部分が少ないというか。能動性は受動性でもあって、自分が身をあずけた分だけ己のうちに流れ込んでくる。身を埋めた分だけ、うちに沈み込んでくるものがある……はずなんだけど、喧伝されたものってのははじめから能動性を奪われてしまっている感じがする。そのくせ一方的に受動性を求められている感じがする。
 
 よい文章の条件があるとしたらきっとそれは、その文章を通じて、読み手が創造できる文章なんだと思う。与えるだけのもの、機械的な情報のやり取りはただの情報伝達としてはいいのかもしれないけれども、個人的なことを書き連ねたブログ、大切なはずの言葉なのだとしたら、それはどうなんだろう……。読んだときに創造性を発揮できる余地がない。受け身であれ、と言われている感じがする。そんな文章はわたしにはおもしろく感じられない。
 
 声の大きな人が得をする社会(裏を返せば声の小さな人が損をする社会ですが)ってのは残念ながら多くの場面で正しいのだろうし、己の考えていること、感じていることを分かりやすく端的に、大きな声で以って発信するというのは人がたくさん集まった場所では大切なことだと思う。けれども案外面白いものは目立たないところにあるものなのではないでしょうか。洒落た雑貨屋は看板も出さず路地裏に佇んでいる。
 
 バズりたい、有名になりたい、目立ちたい、売れたい。
そういう思いがプンプン滲み出た文章、時には何かしらの動機付けになるのかもしれないけど、なんか落ち着きがなくて読みづらい。
消費されたがっているようにも見える。