吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

若さに固執、それは過失

 「私はもう若くないから……」こういうことをおっしゃる高齢の方、いらっしゃいますよね。わたしからしてみればこういうことをおっしゃる高齢の方々も若いと思うし、若いと言われるわたしたちもけっこう年老いていると思うんだけど…。

 

 なぜこんなことを少なからぬ高齢者が好んで言うのか、ちょっと考えたので書いておこうと思います。

 まず、多くの人間は美しさを求めますが、若さと美しさを混同してしまっています。おそらく化粧品のコマーシャルのようなメディアがそれに一役買っているせいだと思いますが(アンチエイジング云々なんてまさに!)、必ずしも若さと美しさは一致しません。幼子の肌の潤いに美しさを見出だす一方で、しわくちゃのおじいちゃんおばあちゃんの手も美しいと感じる。
 けれどもやはり多くの人は若さに執着してしまうもの。おじいちゃんおばあちゃんが美しくても、自分「は」若い美しさを保っていたい、と、皺を隠し、白髪を染める。でもやはりそれにも限界が来るわけで、作ったニセの若さは、若者の若さ、そのままの若さには敵わない。そこで先手を打っておこうと考える。「私はもう若くないから……」

 でも、自分が若くないのだとしたら、目の前にいる「若者」と老いた「わたし」とで何が違うのだろうか。そこで持ち出すのが「年の功」という名の代物です。自分はずっとずっと若さにこだわりつづけてきたのに、「若者」を前にしたときにだけはこの代物を持ち出す。たしかに数十年生きながらえることはただでさえ難しいし、全くそれが価値のないものではないとは思う。けれども、年ゆえの楽しみ、美しさを見ようとしないで若さにこだわることしかしてこなかった人間の口から何が出るのでしょうか。せいぜい「若い時代を大切にしなさい。」こんなところが関の山だと思います。そしてこの言葉を真に受けた若者がいつか年老いたとき、同じ事をまた次の世代に言うのです。「若い時代を大切にしなさい。」若者賛美が再生産。
 それぞれの時期をそれぞれの時期に享受し、味わった人間の口からはこういう言葉が出るのではないでしょうか。「若い時代'も'楽しみなさい。そして生き延びなさい。」と。こういうことが口にできる人生の先輩には今まで1人しか会いませんでした。きっと難しいんだと思う。「若さ」の誘引力って、すごいんですね。年を取ることも楽しみにしたいですね。

 

「おのが年齢にこもる英知を具えねば、年齢にこもるわざわいがことごとく生ずる。」

──ヴォルテール