吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

この季節、わたしは泣いてしまう

 オリンピック、この季節、わたしは泣いてしまうのです。涙にはいろんな、意味が与えられる、よろこび、いかり、かなしみ…。どれがって言えそうにはないけど、強いていうなら悲しみが近いのかもしれない。「○○選手!よくやった!さすが日本の誇り!」

 トップアスリートがいる地点、そこは人類の最尖点、といっていいだろうか。自分のトレーニング環境を用意してくれているという意味で、自らの属性、すなわち国や民族や施設やに感謝することはあるだろう。けれども、選手に自分が日本人だけの代表であるという意識は果してあるのだろうか。思うに、人類の代表の意識をより強く持っているのではないだろうか。

 オリンピックでは人類の限界が目指されている。それは強さかもしれないし、速さかもしれないし、美しさかもしれない。もちろん評価基準としてのこれらだけではない。そこにいたるまでのストイックさや、集中力も含めて、人間がここまでたどり着くことができた、ということを祝する祭典なのだろうと思う。

 だからアスリートたちはライバルを讃えることをよく知っているし、勝ったのは自分だが、自分たちが勝った、という感覚も持っているのではないかと思う。負けたとしても、やっぱりそこには透き通った悔しさがあるのだと思う。「もっと進むことのできた人間がいた。」

 スポーツに政治を持ち込むのは違うという。わたしも同感です。でも、政治的に対立している国に所属する選手が互いにたたえあっているのを見ると、私たちは同じ人間なんだ、ともに同じ時期に人類に生まれついたのだ、ということを悟らざるを得ない。

 テレビの前で寝転びながらぐーたら見るオリンピック。それもいいのかもしれない。あるいはテレビでも見ずに、でも翌日の朝刊で「自国の」選手の金メダルを知って、ナショナリズム的な感情に恍惚を覚える。それももしかしたらいいのかもしれない。でも、あまりにもテレビの向こう側とこちら側との乖離が大きすぎて、わたしは泣いてしまうのです。

 

小平奈緒、五輪新で金 スピード500m 日本女子で初 - 2018平昌オリンピック(ピョンチャンオリンピック)- 五輪特集:朝日新聞デジタル