吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

ねむりにつくまえのぐちゃぐちゃを、ここに

そもそも、人間なんて過小評価か過大評価しかしないしされないものであるけれども、そこに安住することがある生きづらさを生み出しているのではないかと思う。できればその過小でも過大でもないところがきっと存在する。いや存在しないのかも。
一点があるということを無意識的に前提していたけれども、必ずしもそうではないのではないか。
人間は点ではない、もちろん線でもないし、当然そのまま数学的に考えたらたどり着くように、面でも体積を持ったものでもない。
私たちは空洞である。

輪郭のない、空洞。
それはただの無じゃないか。一理あるのかも。
確かに一面ではそれは正しいのかもしれない。
でも、しばしばいうようなマイナスの価値判断としての無ではないような気がする。

からだの中に闇を感じることはありますか。
わかりやすい言葉で言えば、フロイト的な無意識(もちろん無意識は意識できないので、意識の不在という形でそこに近づく)。
わかりにくい言葉で言えば、肉の盲点のような部分と言えそう。

その闇を空洞、輪郭のない空洞と言えそうだ。
つかもうとすること自体が間違っている。
だから、当然過小評価も過大評価も、それが評価である意味で成功するはずはないし、闇に対して基準を当てはめることはできない。