吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

ロンリーナイト

 随分身勝手な「論理愛好家」であったと思う、ある時分のわたしは。「論理愛好家」たる所以を理性のことばで掘り出すことをしないで、おいて、そこには中途半端な合理化とも正当化とも呼べない屁理屈をつけて、おいて、他者には容赦なく論理の金網を押しつける。自分だけはうちにドロドロのカオスを抱えていてもいいと思っていた、それでいいことにしていた。自分を棚に、であればまだ救いはあった。でも、棚に乗っかっている自覚がなかった。もし地に足が着いているなら、金網に赤く腫れ上がった世界の痛みはわたしの痛みでもあったはずだ。
 今も論理的に考えること、話すこと、書くことはする(する、というほど自覚的なものでもないとも思うが)。けれども、偏執愛的な論理へのこだわりはない。少なくとも目的ではないし、「感情」の対立物でもない。論理は論理。ただ、分けて、序列をつけて、結びつけるだけ。うまく付き合えば、ネクらなくても論理できる。