吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

「あいつは信頼をなくした」に潜む欺瞞

「あいつは信頼をなくした」という言葉には欺瞞が潜んでいる。そのことについて書きます。

 

そもそも前提として、「信頼」と「信用」が違う、ということについて記しておく必要があるように思う。
私は無条件に人を信じることを「信頼」、条件付きで人を信じることを「信用」だと考えています。
人によって定義の決め方にずれはあるだろうけど、私は以下、これにしたがって書き進めていく。

 

 

さて、「あいつは信頼をなくした」だ。

これは「あいつ」が悪い、あいつが原因で信頼がなくなった、ということを言いたいのだろうと思う。
あくまで信頼をなくす主語は「あいつ」で、そこには自明の理があるように見せかけている。だがこれが欺瞞なのだ。

 

信頼は、あくまで自分がするかしないかのもの、そして無条件のものであったはず。にもかかわらず、「あいつは信頼をなくした」というときには自分があいつによって信頼できない状態にさせられた、と言っている。話者は主体的に人を信じることを放棄した。それに自覚があればいい。だが、しばしば自覚はない。むしろ、「あいつ」が悪い、と正義のヒーローのごとく糾弾するわけだ。欺瞞。

 

「あいつは信用をなくした」なら話はわかる。条件付きで信じること、である信用をなくすというのは、その「条件」から外れた、ということを意味するからだ(「条件」から外れた、ということしか意味しないからだ)。こちらでは、はじめからビジネスライクな関係であり、条件を充たしている限りにおいて、あなたは信じるに値する、ということが前提とされている。

 

 

大声であいつが信頼をなくした、なんて言わなくていい。
誰かを道連れにしなくていい。
あなたが「あいつ」を信じることをやめたのなら、それはあなたが「あいつ」を信じることをやめた、という、ただそれだけのことだ。

「あいつは信頼をなくした(だから、君もあいつのことを信じたりはしないだろう?)」だなんて、そんなのは傲慢が過ぎる。

 

 

 

世の中には「ダメな人間」というのがいるらしい(それを決めつける権利が自分にあると思っている人の傲慢さには辟易とするが)。

 

その人がダメでなくなることを期待するのなら、その人を信じ続けるしかない。無条件で。

すなわち、その人を信頼するしかない。
条件付きで信じることが適した場合もあるかもしれない。
だが、例の人たちが言う「ダメな人間」は無条件の信頼を必要としていることもある。

ここに潜んでいるのは、「ダメな人間」は「ダメな人間」であってほしい、という「ダメでない人間」のエゴである。「ダメな人間」が「ダメな人間」である限りにおいて、彼らを「ダメだ」と言い続けることができる。自分の優位性を感じていられる。

 

そんな欺瞞に「ダメでないあなた」も負けないで。

偽善に負けないで。

 

 

私はきっと「ダメな人間」です。だから偏ったことを言っていると思います。私が「ダメな人間」だから、「ダメな人間」を見守りたい。彼らを信頼していたいと思う。

 

追伸)わたしの考えは敬愛する先哲 エーリッヒ・フロムによるところが大きいです。