吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

ことばにもいろいろ

 ことばそのものに思いを巡らせたことのある人なら、なんとなく感じていると思うんだけど、ことばにはなまものの部分と、そうでない部分があるよね。ただなにかを伝えるためのツールとしての言語と、詩的言語とでもいえるような、ことばが纏うオーラみたいなものに重点を置く言語と。不変の部分と、即時的な部分、その場かぎりで次の瞬間には死んでしまっている部分と。喩えかたの違いはあれど、わたしの周りのことばを大切にしている人は似たようなことを思っていました。文学理論の先哲に耳を傾ければ、もっとうまく言い得ていると思う。

 そして、このことを弁えていない人が、本の感想で「この人は何を伝えたいのかわからない」とか言ってしまうのです。文字通りのことばしか追わないからそうなるんだよ、って教わらないとわからないのかな(けっしてそんなことはないと思う)。読書好きが多いはずの、読書記録の管理アプリを見ていて思いました(いや、実際いるのは管理好き、数字好きの人間か)。だから、本を読まない人、人のことばに鈍感な人はいったいどうなんだろう、とかも思ってしまうわけです。余計なお世話だけどね、コンビニの「ありがとうございました~」ほどにコンビニエントなことばを、わたしは「人間に」向けたくはないです。