吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

備忘録

私のための文章。
 
私の言葉はまだ、三次元の世界にかなり浸かっている。
ものが混ざり合わない、同じ座標に同時にちがうものが存在しない。
 
日本語には主語と述語がある。
主語には名詞やらなんやら、体言が入って、述語には動詞やら形容詞やら、用言が入る。
小学生の知識(たぶんあってると思う)。
 
そして、私はこう思う。
述語には溶解、拡散の性質があって、名詞には凝固、収束の性質がある。
言語学的な知識はありません)
 
主語を並べる時、そこには不変性、自他の明確な分離というものを感じる。
他方、述語には主語に対する説明的な部分があるので、代替可能性が高く、可変的である。
固有名詞はあるが、固有動詞、固有形容詞はない。
登場人物の行動は変わっても、名前は変わらない。
 
あるいはこうも言えるかもしれない。
述語は行為、名詞は存在。
to haveとto beの違いというか。
 
私の詩には名詞が多い。用言が出てくることが少ない。
だから、私の詩はまだ三次元てきなのだと思う。
 
いいわるいというものではないと思う。
でも、林檎と弁証法が、メトロノームの頂点で交わるところを見てみたい。
 
 
言葉にはまだ可能性がある。そこを感じたい者である以上、私は次元を超えた言葉に触れたい。