吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

吐くように、吸うことについて

この世の痛みも美しさも、すべて吸いこんで果てるということ、それが生きるという責任なんだと思う。
 
責任、というとき。
それは負うもの、逃れるもの、追及するもので、お金を払ったり、なにかを自粛したり、反省文を書いたり、辞任したりするけれども、それは果たして、responsibilityなのかということ。
 
はたしてそこにresponseがあるのかということ。そのabilityがあるのかということ。
言語学的知識はわたしには無い。語源に詳しいわけではない。
 
わたしたちはからだをもって、この世に生を受けた。
今までの人生はすべて人生に対する反応であったと言えるし、その反応がまた別の反応を生んで、生んで、複雑なresponseの網にわたしたちは絡めとられている。
 
わたしは自然の痛みを、自然の美しさを、いっぱいに享受して、果てたいと思う。人間は自然を対象化しきれるほど強い生き物ではない。
 
 
悲しい事件を糾弾すること、悲惨な災害を憂えること。
 
・・・違う。
 
わたしが悲しい事件であり、わたしが悲惨な災害であり、わたしが罪だ。いつまでたってもひとつになれない、セックスはうまくならない。
 
 
コーティングが大好きで、予防が大好きで、先見を照らしたがる人間たちとセックスがしたい。どろどろに溶かしてみたい(溶かされてみたい)と思う。最終的に汚物にでもな成り腐ればいいと思う。それが生きる責任であるのだから。