吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

しんだし

いつも詩は「死んだ」ものらしい。

現代詩は、詩の形式で詩が死んだことを嘆いているものだ、みたいなのを聞いたことがあるし、今、酒を飲みながら読んでいる李白も、彼の五言古詩で正しい詩歌は久しく廃れたままだ、と言っている。

いつだってわたしたちの時代認識は遅れているものなのだ。
本当に詩を遡るなら、わたしたちはラスコーの壁画にまで戻らなければならないような気がする。今、死んでいて、李白のときに死んでいて(古代ギリシャのときは生きていた? アリストテレスの「詩学」がちらつくが)、ずうーっとさかのぼればもう、そこまでいってしまうのではないか。

 

原初の、どうにもならず溢れ出てきたあの「うた」にまで。

 

実は生きていたのかもしれない、でもわからない。

今も生きているのかもしれない、でもわからない。
死んでこそ、わたしたちに見えるものかもしれない。
死なないと、わたしたちに見えないものかもしれない。