吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

おせっかいさんのあなたに

 案外「乗り越えた人」というのがときに厄介だったりするのです。死にたい気持ち、とか、受験浪人、とか、ガン、とか、リストカット、とか、肉親の死、とか、不妊、とか。いろんなものがここには入りそうだけど、たぶん一般的によくないとされているもの、ならけっこうなんでも入るのではないでしょうか。こういう「よくないもの」っていうのは苦難であり、そして苦難ってのは基本的に個人的なものだと思うんですが、厄介な場合というのは、自分の経験を過度に一般化して、まだ「乗り越えられていない人」に押しつけてしまうときなのだと思います。個人的なものであれば、乗り越え方にもいろいろな形があり、乗り越えるのに必要な時間やもの、きっかけも様々であるはず。もしかしたら乗り越えること自体できないかもしれない。だけど押しつけてしまう人がいるのです。その苦難がより特殊なケースであったり、(この判断は主観的なものだけれど)より苦難の度合いが高いときには、より押しつけに拍車がかかりそうな感じがする。また、厄介なのは、「こっち側の人」であるが故に反論しづらいところなんですよね。しかも輪をかけて面倒なのは、「あなたのためを思って」とか「自分が力になってあげなきゃダメ」みたいな変な正義感(多くの場合、偽善です)も一緒に抱いているんですよね。厄介です。
 苦難は主観的なもの。自分で乗り越えなければいけない。ある人ははしごを手に入れてそれを使って越えたのかもしれない。でもまた別の人は素手を擦りむきながら登るのかもしれない。あの人と同じ種類の壁だと思っていたものが、自分だけのものかもしれない。必要があれば人の手を借りればいいのだと思う。でも言われる前から手を貸そうとする必要、はない。厄介な存在は近いところにいることもある。とても大切な存在が遠いところにいることもある。なんとか守ること、いや、うまくいなすこと。これができるようでありたいものです。