吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

脱、脱

男のアンチテーゼは女ではない。女のアンチテーゼは男ではない。止揚されるべきは男と女ではなく、男と、男ではないなにものか、女と、女ではないなにものか。あるいは、男女と、男女ではないなにものか、ではないだろうか。男女を車の両輪に例えたりするのを聞いたことがある。人間が進んでいくためには、両者が相協力する必要がある、と。片方が肥大化したり、歪に歪められてしまっては、まっすぐ道を進むことはできない。この話はまだ分かる。両輪は異なるものとして捉えられているためである。だが、他方で、コインの裏表に例える向きもある。これには納得しかねる。コインのような対称性は男女にはないと考えるためだ。それは、からだの機能といった点でも、単純に身体を形として捉えた場合でも違うというのは明らかなように思う。男女は赤と赤に対する反対色としての緑、あるいは青と青に対する反対色としての橙、ではなく、赤と青なのではないだろうか。色の三原色、赤、青、黄。黄色はここにはない。はじめからそういうものなのではないだろうか。プラトンに依るもので、人間ははじめは二人くっついていて一つだ、という話がある。これは男と女だろう、と多くの人は考えそうなものであるが、男と男、女と女という組み合わせももちろんあり得る。車の両輪が男と女、違う色の車輪である必要はなくて、男と男の車輪、女と女の車輪でもいいのである。単純な二項対立的な図式に私たちは慣れてしまっている。自然と人工、身体と精神、感情と理性、等々。たしかに分かりやすい図式で、多くの場所で二つのものを対立させる、比較させるというのは目にする(かえってそこに人間の思考の限界を見てしまえそうなものでもあるが)。よくよく見てみると、きれいな対立、ちょうど50対50でシンメトリーを為す、なんてものは少ないのである。人間は自然を対象化しているようでその実自然の中で人工ごっこをしているだけだし、身体と精神はそもそも性質が大きく異なる。感情と理性についても、フロイトをはじめとする精神分析家や心理学者の言葉を待つまでもないだろう。私たちはそんな簡単なものではない。だから簡単さや単純さ、安易な純粋さ、みたいなものに惹かれてしまうのであろうが、ものをよく見てみるべきである。黒の反対は白ではなく、赤かもしれないし、白の反対は青かもしれない。そういうものの見方を忘れてはならない。男と女は対称ではない。