吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

ほん

本を読むモチベーションっていろいろあると思います。仕事で、ゼミで、課題で、あまり興味のない分野の本を読むとなれば身は入らないかもしれない。でも扱われている内容が自分にとってとても関心のあることだったらきっと食い入るように読めると思う。

以上は内容から本を捉えたときの話だけれども、「内容」があれば「形式」もある。形式といえば、その本がハードカバーの単行本か、文庫本か、あるいはページあたりの文字数や、文字のない部分すなわち余白にどれだけスペースが割かれているか、それからインクの色、フォント、紙質、などなどと、挙げればキリがないのだけれど、この側面に少し目を向けてみたい。

といっても、「MECE」に!「要素分解」をして!「データ」を用いた!「客観的」結論を得よう!……というわけではなくて、紙媒体の本を少し愛でたいというだけのこと、すこし聞いてください。

 

今はKindleなどにみられるように電子書籍を見かけることが多くなりました。

Kindleのみでの出版(版を刷っていないのに出版というのは変な感じがするけれども)とか、今なら電子書籍何十%オフ、とかみるようになって、出版の手間とか、省けるし、そうなればその分安くもなるんだなーとか思うわけ。

でも本って読み物だけど、読み物であるだけじゃなくて、モノとしての側面もありますよね。
本棚が地面から天井まで、ずらーっと並んでいたら圧倒されるし(それは数の暴力的)、そうでなくても、ものすごい重厚感のあるものものしい装丁の古い本が卓上に置かれていたら何事かと思う(質の暴力的)。
夏目漱石全集や、ニーチェ全集を、モノでほしいとは思うけれども、Kindleで持ち運ぼうとは思わない。

積ん読本、とか言ったりしますが、あれはやっぱりちょっとした収集欲のあらわれでもあると思う。自宅の本棚、書斎を人に公開しなかったとしても、自己満足として、モノを集めておきたい、ということ。積ん読、わたしもしてしまいます。

本の「形式」のことを、装丁、と呼んだりするけれど、装丁を規格化して、安易に持ち運べるようにしたのが、文庫であり、新書であると思う。だから、持ち運びには文庫や新書は便利だけれども、単に持ち運びという点だけを見るなら、Kindleと競合しうる。

なんとなく本の未来を予想してみようと思う。
たぶん、ビジネス書をはじめとした、知識を得ることが主な目的の本は電子書籍の比重が高くなる。
そして、装丁に凝った本が、あるいはそういった本をメインに出版する出版社が出てくる。
そうした出版社はモノとしておもしろい本を作る。
紙のざらつきに特徴があったり、やたらと変わったフォント、ことばの配置があったり、本の形が直方体でなくなったり。

でもこの傾向は劇的には起こらない。
それは、電子書籍をよく聞くようになったのがここ数年内のことである、というのもそうだけど、やはり本を好む人にはアナログ的な部分で本を好むところがあるからだと思う。暗闇の中、必死にページを繰って本を読んだ経験、重たい国語辞典を学校まで持ち運んだ経験。そういった、モノとしての本に結びついた経験を備えている人が多くいる。だから、劇的には進まない。けれども少しずつは進んでいく。電子書籍にはバックライトがあるし、国語辞典は電子辞書の中に入っている。

今後どうなるのか。紙の本が手に入るうちはわりとどうでもいいけど、喫茶店で、電車で、Kindleの画面をスワイプしている人より、本を読んでいる人の方にわたしは惹かれる。