吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

いるだけで、うばう

存在することの暴力性。

ただいるだけで暴力。

わたしはだれかの無で、わたしの無がだれかの存在である。

じゃあ死ねといっているのか、といわれたら、そうではない。死んでも存在はなくならない。いた事実、あるいは未来の呼び水としていつもそこにいる。

わたしが存在を示せばしめすほど、だれかは暴力を振るわれている。逆もまた然り、だれかがそこいることはわたしへの暴力だ。

「暴力を振るうのはいけません。」
だから暴力を振るわないでいたい、というのではない。すでに振るっている。すでに振るわれている。いたい。

卑屈になって、なって、おのれを消し去ろうとして、そうすることでひとにやさしくあろうとする。でも消し去ることはできない、見て見ぬフリ。ちゃんとここにいるおのれのいないフリ。卑屈の皮をかぶって実は傲慢か。

でもそんなフリはできない。
ここにいないフリをすることができないのさ。
もうあってしまっている。
もうすでに、ここにあってしまっている。

 

暴力とはなにか。他人の一部を殺すこと。

であれば、殺さずには生きられないのがわたしたちだ。
晴れやかなコロシはあり得るのか。

ぐちゅぐちゅ暗くて湿っぽいコロシを感じてしまいます。
それは手をくだしていない牛肉の牛丼。
カラフルなプラスチックに包まれた、コンビニ弁当。

 

いること、暴力。

それを超える供儀。

生と死のダンス。

 

もう少し考えることがある。