吹かれて葺かれて、わたしは葦

方法的非方法。徒然なるままに。

わたしたち、管

 口と肛門の関係、不思議なものだと思う。生物の授業でそれが一本の消化管であるとして教わるように、この二者は人間についている入口と出口というふうに言える。美味しそうに盛り付けられた食べ物がある。だがそれをぐちゃぐちゃに混ぜてしまえば不味そう、汚いということになる。それは食べ物が人間という一本の管を経て、混ぜられ、解され、溶かされていく過程をそこに投影するからではないでしょうか。食べ方が汚い、と言うとき、その人の口に汚いものとしての肛門を読み取るし、食べ方がきれいな人は尻の穴周りの手入れも行き届いているのではないかと、要らぬ想像もしてしまうものです。
 さて、尻の穴周りの手入れ、といえば、剃毛のことですが、私たちは必要以上に不安を煽り立てられていると思う。清潔感のために、身だしなみのために、だとか言って、体毛を剃る、髭を剃る。ときに残っている毛がセクシーに思われたり、そそったりすることがあるようだけれども、それも例外的な話であると、異端であると認識されているように思う。ベッドで冷めないように、なんて言ってるけれど、それも無意識のうちに必要以上の消費を促す宣伝の効果を受けているせいじゃないでしょうか。このことを詳しく書く場所としてはここは適していない。けれども、なぜこの煽動がうまくいくのか、ということに関しては一考に値すると思う。

 なぜ私たちは毛の薄い状態をよりよいと感じるのか。思うに、それは少年愛が根底にあるためではないでしょうか。少年愛といっても、少年を性的対象と見ること、少年相手に興奮を覚えることではなくて、そこに美を見出だすということです。プラトニック・ラブという言葉があります。今は体の交わりのない男女の恋愛を指すことが多い概念ですが、元は、年長者である男性が少年の成長を手助けする(ときに体の交わりもあったそうですが)概念です。この少年愛がきっと根底にある。少女愛ではあり得ない。大人たちが大人たちの美しさを評価する際の基準は少年の美に照らし合わせられる。毛の薄さも肌の白さも、その丸みも。大人の女性が美しいのは少女らしさがあるから、ではない。想像してみれば分かると思う。少女の美しさも元をたどれば少年の美しさに還元される。大人の女性が美しいとされるのは、少年の美しさを彷彿とさせるからです。何を根拠に、と仰る方が多いとは思う。残念ながらこれ以上の説明ができそうにはないけれども、己の経験を省みたら思い当たる節がある人はいるのではないでしょうか(その人たちにはむしろ充分すぎたのではないかとも思っているが)。
 以上は稲垣足穂氏のA感覚に関する議論を借り受けている。